目次
サンプルシナリオ武将生没(登場)年データ報告3
停滞しているのも何なので、三分割でいきましょう。
- 中国・四国・九州の大名家辺りが妥当でしょうか。
- 石見~薩摩がよいかと
大大名家
尼子家
宗家
- <参考>尼子経久1458
- <参考>尼子政久1488?
- 尼子晴久1514
- 尼子 義久1540
新宮党
- 尼子 国久1492?
- 尼子 誠久1510?
- 尼子 豊久
- 既に没しているのでシナリオから省くべき。
- 尼子 敬久
- 尼子 勝久1553
豊久は戦死、国久らは1554年、晴久により誅殺。勝久は1578年、上月城で自害。
毛利家
- 乃美 宗勝 1527
- 吉川 経安 1525
- 吉川 経家 1547
- 志道 広良 1467
- 宍戸 隆家 1518
- 桂 元澄 1500
- 福原 貞俊 1512
- 福原 広俊 ????
- 熊谷 信直 1507
- 熊谷 元直 1555
- 井上 元兼 1495
- 口羽 通良 1513
- 内藤 元盛 1566
長宗我部家
- 長宗我部信親
- 長宗我部盛親
- 吉田重俊。生没年不詳
- 永禄12年(1569年)の安芸国虎討伐に戦功があったらしいので、没年を遅らすべきかと。
一案としては1571年(60歳)病死。
- 福留親政
- 福留儀重1549
- 香宗我部親泰
- 久武親信
- 細川定輔。生没年不詳
- 四国平定戦に終始従軍したとされているので、76年没(父国隆と同じ設定)は早すぎる。
一案としては1601年(60歳)病死。
- 比江山親興
- 長宗我部掃部助とすべきかも。
- 細川国隆、長宗我部康豊、調査不能。
大友家
- 大友 義鎮 1530
- 1562年、家臣により出家させられ、宗麟と号す。
- 1578年、洗礼を受ける。洗礼名はドン・フランシスコ(普蘭師司怙)。
- 人心が離れ、耳川の大敗後、造反が続出。一挙に没落、と。
- 大友 義統 1558
- 後、秀吉より一字もらい、吉統。
- 怒留湯融泉、調査不能。
- 角隅石宗、斉藤鑑実、臼杵紹冊、木付鎮秀、柴田礼能、田北鎮周は戦死。(没年はあってる。)
- 戸次鑑連(立花道雪) 1513
- 1562年、主君とともに出家、道雪と号す。1570年立花氏を継ぐ。
- 田原親賢
- 田原親貫
- 1578年の日向対島津戦には参加してる。なので、登場年を早めた方がいい。
1579年に謀反を起こし、翌80年に鎮圧され死亡。
親貫を入れるより、むしろ彼を養子にとった田原親宏(????-1579病死)を入れた方がいいのでは?
田北紹鉄も1579年に離反して、翌80年に逃亡中討死。
- 高橋紹運(鎮種) 1548
- 吉弘鑑理の次男。高橋鑑種追放後に宝満城城主となる。1570年5月に高橋家を継いだ(つまり条件イベント入れるなら、高橋家の滅亡が条件の改名イベント)。
- 高橋姓になってから鎮種と名乗る。継ぐ前の名前は「鎮理」、1578年に紹雲と名乗るから最初は鎮理でよいと思う。
- 立花宗茂(統虎) 1567
- 1610年頃に宗茂を名乗る。
吉弘鑑理とその孫の統幸がいるから、鎮信(鑑理の嫡男、統幸の父:????-1578戦死)も入れては?
大友家は、謀反や離反が多かった。条件イベントが幾つかあってもいいかと。
1553年府内の乱(1月)一万田鑑相、宗像艦久、服部右京助らが謀反。 1557年秋月文種、筑紫惟門らの離反。 1565年立花鑑載の離反。 1567年(68?)高橋鑑種・立花鑑載・秋月種実らの謀反。 朽網鑑康の離反(島津と隣接→朽網独立)を入れるなら、息子の鎮則(????-1587処刑)も付けたい。
大友晴英1540-1557(自害)を入れてあげるべきか。 どっちにしろ、サンプルの陶独立はあまりにも不適当。 ↑ここ「改善の余地あり」くらいにしたらどうでしょう? 気持ちは分かるけど…。 せめて、『プレイヤーが大内家を担当していない』ぐらいないと。
せめて、大友晴英を迎えろよ、陶隆房(晴英の晴を受けてこその晴賢だし)。
- 大内 輝弘(義隆の父・義興の従兄弟、大友家家臣)
- 1568年、大友氏の後援の元、周防を制圧するも元就に敗れ最期は自害した) 1520
陶家
大内家
- 大内 義隆 1507
- 大内 義尊 1545
- 相良 武任 1498
- 冷泉 隆豊 1513
- 冷泉 元豊 ?
- 冷泉 元満 ?
- 内藤 隆春 1528
- 内藤興盛の子だが、大内家所属の意味はあるのか?
- 杉 興連 1506
- 興運じゃなくて、興連。
島津家
どうでもいいが、鹿児島城は1602年建築。1550年に清水城から内城に拠点を移している。
- 島津 忠良 1493
- 島津 貴久(忠良長男) 1514
- 島津 義久 1533
- 島津 義弘 1535
- 島津 久保(義弘長男) 1573
- 島津 忠恒(家久。義弘次男) 1576
- 1606家康より一字もらって家久を名乗る。
- 島津 歳久 1537
- 島津忠憐(歳久長男) 1569
- 島津 家久 1547
- 登場年を見直すべきかと。勇名を馳せたのは後年ですが、1575(28歳)登場はやっぱり遅すぎでは。
- 島津 豊久(家久長男) 1570
- 島津 忠将(忠良次男) 1520
- 島津 以久(忠将長男) 1550
### 大大名家以外は、以下国毎にまとめます。###
播磨
別所家
- 別所 就治 1502
- 別所 安治 1532
- 別所 重宗 1529
- 有馬 則頼 1523
- 有馬 豊氏 1567
- 淡河 定範 1539
- 江見 又四郎 生没年不詳。淡河定範の実父?甥?
- 別所 長治 1558
- 糟屋 武則 1562
以下追加できるならば
- 別所友之 1560
- 別所治定 1561
- 別所吉親 ?
小寺家
- 小寺 政職 1525
- 黒田 重高 1508
- 黒田 職高 1524
- 黒田 孝高 1546
- 黒田 長政 1568
- 魚住 吉長 ?
- 後藤 基次 1560
- 母里 友信 1556?
赤松家
- 赤松 晴政 1513
- 高島 政澄 ?
- 赤松 政範 1536
- 赤松 義祐 1537
- 赤松 則房 1559
- 赤松 則英 ?
- 赤松 政秀 1510
- 赤松 広通 1562
- 藤原 粛 1561
- 上月 景勝 生没年不詳
- 上月 景貞 1578年討死
以下追加できるならば
- 赤松 政直 ?
播磨浦上家
- 浦上 政宗 ?
- 浦上 清宗 ?
以下追加できるならば
- 浦上 誠宗 ?
- 浦上 直宗 1567
宇野家
- 宇野 村頼 生没年不詳
- 宇野 政頼
- 宇野 祐清
英賀三木氏
- 三木 通秋 1534
- 三木 安明 1563
美作
草刈家
- 草刈 景継 ?
- 草刈 重継 ?
開始時点の当主は草刈 衡継(?-1568)1531年因幡守護職、1559年隠居。
後藤家
- 後藤 勝国 ?
- 後藤 勝元 1538
美作山名家
- 山名 氏兼 生没年不詳
神楽尾城は1538年に落城、1543年以降の経歴不明。尼子氏に敵対しておりシナリオ開始時点まで勢力を保っていたかは怪しい。(某戦国SLGでは1509-1548と設定されている)
いずれにせよ今のコピペ生没年よりは少し早い年代にずらすべきか。
原田家
- 原田 忠長 ?
- 原田 忠佐 ?
忠長の後は忠長の子貞佐(?-1584)、貞佐の子行佐(?-1592)、行佐の子忠佐(?-1621)の順で継いでいます。忠佐は朝鮮の役の時代の人物です。
三浦家
- 三浦貞久 1510
- 三浦貞勝 1543
- 1565年1月2日自害。
三浦家は1548年に尼子により滅ぼされ、1559年に尼子から所領を奪い返したので、検討の必要があるかもしれません。
いっそのこと、貞勝兄の三浦貞広(生没年不詳)を出して、初期は尼子の従属下というのも有りかもしれない。
中村家
- 中村 則治 ?
備前
備前浦上家
- 浦上 宗景 生没年不詳
- 生年に関しては1520年頃成立と推測される系図に名前が無く幼少あるいは出生前。また1531年の父討死の時幼少だったといわれる。
- 中山 信正 1510?
- 島村 宗政 ?
- 沼本 房家 ?
- 明石 景親 生没年不詳
- 小田原に従軍。没年は1590~1594年の間?
- 明石 景季 ?
以下追加できるならば
- 浦上 宗辰 1549
- 浦上 成宗 1573
宇喜多家
- 宇喜多 直家 1529
- 宇喜多 忠家 1533
- 花房 正幸 1524
- 戸川 秀安 1538
- 長船 貞親 ?
- 長船 綱直 ?
- 明石 全登 生没年不詳 大坂夏の陣以降消息不明。
- 初期設定では父の明石景親と同じく浦上家の方がよい?
- 花房 職之 1549
- 宇喜多 秀家 1573
松田家
- 松田 元輝 ?
- 松田 元賢 ?
イベントでやるなら、松田領→宇喜多領に併呑。
既に勢力が上回っていた宇喜多家に攻め滅ぼされただけなのでイベントは必要ないかと。 イベントを作るならむしろ直家による家臣暗殺か伊賀久隆の離反を。
金光家
岡山城は宇喜多秀家が建造。当時はまだ石山城。
初期では松田家に従属か臣従。
- 金光 備前 生没年不詳(生没年は永正年間~永禄年間か?。)
- 金光 宗高 ?
- 金光 備前の養子、実父は浦上村宗か?。学説では浦上与次郎が宗高ではないかという意見と能勢頼吉の弟ではないかとの意見が存在する。
- 金光 文右衛門 生没年不詳(宗高長男・宇喜多家家臣。関ヶ原後隠棲)
- 金光 太郎右衛門 生没年不詳(宗高次男・宇喜多家家臣。関ヶ原後隠棲)
- 金光 安兵衛 生没年不詳(太郎右衛門長男・宇喜多家家臣。関ヶ原後隠棲)
イベントでやるなら、金光領→宇喜多領に併呑。
上野家
- 上野 隆徳 ?
- 1554年頃に三村家親の娘婿となる。
伊賀家
- 伊賀 勝隆 生没年不詳。1568年以前に子の久隆が城主となっている。
- 伊賀 久隆 ?
備中
石川家
- 石川 久孝 ?
- 石川 久智 ?
- 石川 久式 ?
庄家、石川家はどちらも元は細川氏の備中守護代家(石川家は庄家の家臣ではない)。
1540~1541年尼子家が備後・安芸を攻めた時、備中の石川家、細川家、三村家などは大内方。一方1540年庄家は尼子方?
その後三村家は毛利家を頼り、1553年以降庄家の一部、石川家、備前上野家を縁組みで取り込んだ。このときは清水家はまだ石川家家臣。
清水家
- 清水 宗則 ?
- 清水 宗治 1536
1574年以前は父備後守宗則(1567~1570の間まで生存?)、兄備後守宗知(出家、月清入道、1582年自害)が高松城主であった可能性がある。
三村家
- 三村 家親 1517(1513?)
- 三村 親成 ?
- 三村 元親 ?
- 三村(庄・穂田) 元祐 ?
- 上田 実親 1556
庄家
- 庄 為資 ?
- 1553年2月15日没とされる。病死の場合はもっと後年?
- 庄 高資 ?
- 穂田 実親(実近) 生没年不詳。1568あるいは1571に戦死
笠岡村上家
隆重、景広とも生没年不詳。 ただし、景広は隆重の嫡子なので、生没年に差をつけるべき。
隆重は村上武吉(能島村上家)の叔父で、1540-45年頃の武吉の家督相続争いで武吉方を支援しています。
景広は関が原後に細川氏の小倉城築城にかかわり、1627年73歳で死去と言われているようですので、1554-1627でしょうか。
備後
因島村上家
生没年不詳ということ以上には、よく分からない。
吉充は1575年の木津川合戦にも参加しているので1519年よりはもう少し後ろの生まれでしょうか。
安芸
天野家
- 天野 隆重 1502
平賀家
- 平賀 隆保 ????
- 平賀 広相 1528
安芸阿曽沼家
- 阿曽沼 広秀 1530
- 阿曽沼 元景 不詳
淡路
安宅家
- 安宅 冬康(三好元長三男・秀興の養子) 1528
- 安宅 秀興 ?
- 安宅 信康(冬康子) 1549
- 安宅 清康(冬康子)
伊予
能島村上家
- 村上武吉、生年1533は「確実」では? →「村上舟戦要法」を著す。
- 村上元吉1553
来島村上家
- 村上通康-1567。
- 村上通総1597戦死。
- 得居通幸、調査不能。←通之の間違い?
- 通之なら一般には通年(みちとし)。生没年は不詳。
- ただし、得居通年は村上通総の弟なので生年の「1561確実」は怪しい。没年は兄と共に1597戦死。
通幸を庶子で通総の兄、としている資料が多いかと思います。名前も通年よりは通幸(之)としているほうが多いかと。
河野家
- 河野通直????
- 河野通宣????
- 河野通直1563?64?
- 河野通昭、通軌、調査不能。
- 大野某は調査不能。←謀反を起こしたらしい。
- 大野直昌
母が平岡房実の娘、河野通直(1587没)の伊予退去にも付き従ったとも言われていますが…。
謀反を起こしたのは実弟の大野直之(シナリオ内では伊予宇都宮家の家臣にいます)です。 * 平岡房実 1513 * ちなみに、関が原のときに伊予で河野家復興を図ったのは子の平岡直房(1551 * 曾根某はどちらも調査不能。 * 忽那 通著 ?
土佐
土佐吉良家
- 吉良 宣経 1514
- 吉良 宣直
豊後
一万田家
- [参考]一万田常泰。生没年不詳。
- 天文五年(1536)から弘治三年(1557)まで大友義鑑・義鎮の重臣だったらしい。
- [参考]一万田親泰。常泰の次男で継嗣。(長男は夭逝。)
- 大友義鎮の重臣だったが、妻を主義鎮に奪われたあげく謀殺されたらしい。
- 一万田鑑相。生没年不詳(1553謀反→戦死? 常泰謀殺の件と関係ある?)。
- 血縁関係がよく分からない…。
- 一万田鑑実????
- 一万田鎮実????
志賀家
- 志賀親守 1511
親守とその孫親次がいるなら、志賀親度(親守の子、親次の父:????-1587処刑)も入れといては?
筑前
宗像家
立花家
- 立花鑑載(鑑俊)
- 1565,1568謀反。
- 立花親善 生没年不詳
- 立花道雪については、大友家参照。
原田家
秋月家
高橋家
- 高橋鑑種1536
- 特に再現する必要もないが、1552年大内晴英に従い山口へ、1557年大内が滅亡すると帰参。謀反は1567年。
- 高橋元種(秋月種実子、鑑種養子)1571
- 高橋紹運(鎮種)については、大友家参照。
筑後
問註所家
丹波家
星野家
黒木家
上蒲池家
下蒲池家
田尻家
対馬
宗家
- 宗 晴康 1475
- 宗 義調 1530
- 宗 義智 1568
壱岐
波多家
- 波多盛は1555頃までに死去したとされる。~1555くらい? ~1547
- 波多親は~1575となっているけど、文禄の役には参陣している。~1598くらい?
波多家の配置は?龍造寺とのバランスからも、壱岐と肥前の居城は経路で繋ぐべきでは? 盛没後の相続争いで、波多家の勢力は急速に衰えていた。
岸岳城
- 波多親(有馬義貞の二男(? 義貞の次男は有馬晴信なんだが・・・。兄弟か従兄弟であろうか)・盛死後養子となり家督相続)
壱岐・亀岡城代
- 波多隆
- 波多重(隆・弟)
- 波多政(隆・末弟)
三兄弟は盛の弟の子。
- 日高資(
- 日高喜(資子)
- 1564年、波多氏を追放し、岸岳城を乗っ取り、波多政を壱岐城代とした。
- 1569年、有馬氏の援助を受けた波多親に敗れ壱岐に落ち延び、政を殺害。
- 1571年、喜は平戸松浦氏の従属下に入る。
肥前
筑紫家
- 筑紫惟門。1531~1567
- 筑紫広門。1556~1623
少弐家
- 少弐冬尚1529~1559戦死(自害)。
冬尚(松法師丸)は1517年(異説あり)に家督を継いでいるので、生年はそれ以前。 サンプルシナリオの1509年が妥当か。
- 千葉胤頼(冬尚弟)1532~1559戦死(自害)。
- 少弐政興(冬尚弟)1534~?
- 政興は兄二人が龍造寺隆信に討たれた後、1563年に肥前の豪族らと共に隆信と戦うが、少弐氏再興は果たせなかった。
神代<くましろ>家
- 神代勝利 1511~1565
- 神代 長良。生没年不詳。
- ただし、佐賀藩士となっているので、江戸初期まで存命。
- 神代 家良(鍋島 犬法師丸。直茂甥・長良養子)
龍造寺家
- 龍造寺隆信 戦死。
胤信→隆信の改名イベント(1551年)を入れるといいかも。
継承順位は0では?
鍋島清房(直茂の父で龍造寺隆信の重臣)を入れるべきでは? 生没年不詳(1510~70くらいか。)
鍋島直茂(1538-1618)の登場時期は1554年の初陣時に繰り上げた方が良いかも。
- 木下昌直、成松信勝、円城寺信胤、江里口信常、倉町信俊は戦死。
- (このあたりは、生年不詳ながら全体的に少し遅めの設定な気がする。)
- 百武某は調査不能。
龍造寺四天王の五人が遅くに登場するのは、龍造寺の勢力拡大が1570年頃からだから(大友が斜陽に入るのに合わせて成長した)。
細かいことを言えば、1551年10月、大内義隆が討たれると大友氏の助力を得た家臣・土橋栄益により隆信は追放されます。 下蒲池家の庇護下にいた後、1554年に復帰したようです。
伊万里家
- 伊万里家利~1623。
後藤家
松浦家
松浦隆信(平戸松浦家)が惣領家(相野浦松浦家)の松浦親の飯盛城を攻め落としたのは1563年。
- 籠手田某、調査不能。
大村家
- 宮原某、今道某、調査不能。
有馬家
- 有馬晴信1567
宇久家
- 宇久盛定
- 宇久純定調査不能。
- 五島純玄1562~1594。
五島氏への改姓イベント(1575年以降)を用意するといいかも。
肥後
小原家
赤星家
(菊池家重臣?)
隈部家
(菊池家重臣?)
内空閑家
城家
(菊池家重臣?)
菊池家
- 菊池 義武 大友家と宿敵イベント?
能運?
甲斐家
阿蘇大宮司家
- 阿蘇 惟豊
- 阿蘇 惟将
- 阿蘇 惟種?
甲斐 宗運 改名イベント?
相良家
- 相良 晴広 1513
- 相良 義陽 1544
- 相良 忠房(義陽長男)
- 相良 頼房(長毎) 1574
- 犬童 頼安 1521
- 犬童 頼兄 1568
- 赤池 長任 1529
- 深水 長智 1532
- 岡本 頼氏 1537
- 丸目 長恵 1540
- 上泉信綱の門下生でもある。
- 上村 頼興(相良晴広実父) 1490
- 上村 頼孝 1523
相良 義陽×上村 頼孝
日向
土持家
- 土持 親成
- 土持 久綱(高信) 1558
- 土持 親信(不詳。久綱と同一人物説、父子説もある)
- 親信は、①親成=高信(養子とするが、実子説も有り)、②栄続
伊東家
豊州島津家
- 島津 忠広(弘は間違い、旧字では廣) 1482
- 北郷(島津) 忠親(忠相子・忠広養子) 1504
- 北郷忠親は1549に豊州家へ養子に入り、島津忠親。
- 島津 朝久(忠親次男)
北郷家
- 北郷 忠相 ?
- 北郷 時久(忠親長男) 1530
- 北郷 相久(時久長男)
- 北郷 忠虎(時久次男) 1556
北原家
- 北原 兼守
- 死後伊東家に併合で
大隅
大隅蒲生家
加治木肝付家
樺山家
伊地知家
薬丸家
禰寝家
肝付家
- 肝付 兼続 1511
- 肝付 良兼 1535
- 肝付 兼亮 1558
ここで、島津臣従なので、イベントで宿敵解除しておくべきかもしれない(肝付が島津の攻撃に耐えられるとも思えないが・・・)
- 肝付 兼護 1561
種子島家
時尭と久時の継承順位の見直しぐらい?
薩摩
薩州島津家
- 島津 実久 1510
- 島津 義虎 1536
菱刈家
- 菱刈 重猛
- 菱刈 隆秋 1518
- 菱刈 鶴千代(重広) ?
入来院家
- 入来院 重嗣 ?
- 入来院 重時