サンプルシナリオVer.2.0 宗家攻略

  • SE版サンプルシナリオVer2.0、包囲網イベントON。
  • 宗家は九州の離島対馬の大名。辺境の地からの全国統一が見たくて選択してみた。1550年4月では、石高1万6千(Max2万)、交易船2、経済150(Max400)。軍備は軍船1に足軽800人。大名家全体の中では下の中くらいの国力か。部将は当主の宗晴康(武3政4知2野3水4)と宗将盛(武3政3知3野3水4)。当主晴康氏は齢75歳、元気に長生きしてほしいものである。
  • お隣さんは海路で繋がれた2家のみ。波多松浦家3万7千石(Max7万8千)港2と、平戸松浦家3万石(Max5万5千)港1。どちらかを攻めるしかないのだが、石高や港数からいって、時間が経てば経つほど不利になりそうにも思う。宗家の金石城は城規模8。陸路0海路2の孤島のため、多少攻められてもびくともしなそうだ。喜んだのも束の間、しかし両隣、波多松浦家の壱岐島の亀丘城も城規模8、平戸松浦家の勝尾嶽城は城規模6。どう攻めたものか…。
  • 当面の目標をたててみる。石高では逆立ちしても勝てないので貿易船を最優先で揃え、兵力と資金を蓄える。朝鮮との貿易はなんと純利225/月。これは大きな強みだろう。ただ隣家も港があるので(波多松浦家は2港!)、油断はできない。そして隣家が何かのきっかけに消耗したら、すかさず飛びかかる予定。
  • 1552年春。漁夫の利作戦の期待を裏切って、北九州辺境の三家は、互いに同盟を結んで日々平和に過ごしている。このままこの地で天下統一を見届けるのもまた一興かもしれないとすら思う。チャンスがないまま2年ひたすら内政と徴兵で、軍船4・騎馬兵220・足軽3650が揃った。待機軍船と兵の維持費が貿易の利益をわずかに上回ってしまい、これが宗家の持てる最大軍力。もう攻めかかるしかないと思う。
  • 順調に軍拡している波多松浦家の亀丘城(城規模8)は諦めて、狙いは平戸松浦家の勝尾嶽城。実はこれまでにも何度か破棄して攻めてみたのだが、当主の松浦隆信(21歳)の優秀な知力・統率力と、武力4の家臣籠手田安経(18歳)の率いる騎馬隊の前に、兵力で上回ってもなぜか勝てない。隣の芝生は青かった…。宗家にも宗義調(19歳)が登場し、政治は優秀、武力・統率は2。前線部将としては心許ないが、一人でも人手が欲しいのでよしとする。平戸松浦家は部将の質は良いが、資金に余裕が無いのか船も増やさず、兵力も増やさず(守備兵900・騎馬500・足軽1000)、兵糧も少し増えたが11000と許容の範囲内。4000の兵なら篭城戦に持ち込めるか。
  • 1552年4月、ついに平戸松浦家へ攻めかかろうというところで、波多松浦家の方が同盟破棄してきた。同盟関係を見ると、宗家以外とは全て同盟している。こうなったら波多とやりあうべきか、小一時間悩む。兵力はこちらが軍船4に対し、波多は軍船3。やられることはないが、無事勝って篭城戦に持ち込んだとして…。波多松浦家は2城あるので自由に撤退できる。規模8の城を強襲で落とすのも、20000を越える兵糧が尽きるのを待つのも、良くて一年がかりである。その間、待機兵の維持ですらトントンの宗家はひどい赤字となり、生命線の貿易船も回せなくなって、戦力を蓄えた波多に追い払われる可能性もある。やっぱりこれは避けなければいけない。攻略サイトを調べて、波多松浦家と同盟している国に従属する方法があることを知り、これしかない!と竜造寺家へ従属。(その後毎ターン臣従を迫られることとなる・笑)
  • 1552年5月、やっと平戸松浦家へと出兵。貯金は4000。出兵中貯金が持つことは期待できないとして、収穫期までに兵が逃げないことを祈るばかり。一戦闘に3回も騎馬隊に突破されたが、数の力で辛くも押さえ、篭城戦では松浦隆信の計略で兵が突出し被害を受けてしまう。それでも何とか数の優位は保っている。
  • 1552年10月、ついに平戸松浦家・勝尾嶽城を入手。実はここまでにリセットすること数回。平戸松浦家が竜造寺家に臣従し、手も足も出せなくなってしまうのである…。邪道とは思うがここを取らないと先に進めないので。そしてなんと、これまで散々煮え湯を飲まされてきた若く優秀な部将二人が降伏してきた。隣の青い芝生が主人ごと手に入ってほくそ笑んでいる。
  • 半年の戦で3200まで減った兵力と資金を何とか持ち直したいところ。収穫を迎えて、半数が停止してしまった朝鮮との貿易船も無事再開できた。勝尾嶽城の貿易船はまだ一隻。まずはここを10隻揃えて起動に乗せたい。
  • 1552年2月、主家竜造寺が有馬家を臣従させ、矛先を北西に変えてきた。次のターゲットと思っていた伊万里松浦家が、7千を越える兵で強襲されている。このままでは、このあたりの中小大名家があっという間に平らげられてしまう。のんびり国力を蓄えたいが、そうも言っていられないようだ。
  • 1553年5月、兵の補充も最低限のみで、隣の相模松浦家・肥前飯盛城へと船を出す。こちらを押さえれば、五島列島は竜造寺の手が届かなくなるので、ゆっくり片付けることができる。相模松浦家の軍は守護兵1200・騎馬兵120・足軽1320。4000弱の軍なら何とかいけるだろう。無事兵糧攻めへと持ち込んだところで、後ろの勝尾嶽城が五島列島の宇久家から攻められ始めてしまった。補充の余裕がなく、勝尾嶽城の兵糧は2000、守護兵200と留守番の部将足軽100。たった800の兵に包囲され、手も足も出ない。勝尾嶽城は九州本土でありながら、陸路の無いまさに陸の孤島である。宗家の軍船は全て出撃しているので、援軍も撤退もできないのが歯がゆい。
  • 1553年11月、肥前飯盛城を何とか先に落とし、残り兵糧僅かな勝尾嶽城へ軍船で救援に急ぐ。僅か800の宇久勢はすごすご引き上げる。このまま五島列島へ攻めかかってしまいたいが、そうもいかないようだ。現在宗家と隣り合うのは、主家竜造寺、同盟波多松浦、大村、宇久の4家のみ。大村家の2城のうち、桜馬場城は竜造寺に強襲され始めている。このままだと全て竜造寺に取られてしまう。
  • 1554年1月、休む間も無いまま、大村家の大村城へ水路+陸路出陣。陸路も繋がっているとはいえ、大村家は軍船3隻。こちらはまた4隻とも出すしかない。大村城は守備兵1500・騎馬100・足軽2080。きわどいところだが、攻めるなら今しかない。4500ほどの兵で取り囲んでみると、守備兵と200ほどの留守番を残して、幸か不幸か主力はいなくなっている。隣の竜造寺の城を攻めにいったようである。戦力過剰なので、一部撤兵させても大丈夫だろうか。連戦でさすがに船が回らなくなってきたので、少しでも節約したい。
  • 1554年3月、竜造寺に追い払われたようで、大村の兵が突然戻ってきている。結局包囲兵を減らさなくてよかった。野戦が起こり、大村家は1900、こちらは4000ほどまで兵力が減る。包囲継続可能で安心する。こちらがカツカツなのを見越したように、再び宇久家が勝尾嶽城を攻めてくる。兵糧は補充したのでもつだろうが、憎らしいので財布をはたいて5艘目の軍船を発注。完成まで4ヶ月が長い。
  • 1554年9月、大村城を落とす。篭城部将のうち3人を捕虜にする。同時に竜造寺が隣の桜馬場城を強襲で攻め落とし、3人はそのまま家臣となる。これで部将は10人。ほぼ凡将だが、良い感じに人手が増えて嬉しい。収穫を迎え、再び貿易船を全て回すことが可能になる。
  • 1554年10月、資金に余裕もあるので、間を置かず軍船5艘に5000の兵を乗せ、旧怨の宇久家へ攻めかかる。宇久勢は騎馬50・足軽780と小勢だが、五島列島の江川城は城規模7・兵糧19000・守備兵1900。野戦をして半端に敵兵を減らすと面倒なことになりそうだ。
  • 1555年5月、江川城を無事入手。宗家は19万6805石、九州の大名家では7番手につける。各港では、博多・琉球・朝鮮・明国・安南・交趾(ベトナム)と交易可能。石高はまだまだだが、舶来品は宗家に任せてと言いたいところである。だがついに攻める場所が無くなってしまった。隣り合うのは主家竜造寺(45万石・九州1位)と、かつて交戦を見送った波多松浦家の難攻不落の亀丘城。竜造寺を敵に回すのは得策ではないので、波多松浦家を攻めるために、竜造寺と同盟を結ぶ相良家(10万石)に従属する。主家より石高が上回っているが、外交費節約のために利用させていただこう。
  • 1555年6月、壱岐島の亀丘城へ出兵。波多松浦家は、秋月家弱体化に伴い道中の大名家が独立して主家と切り離されてしまった原田家高祖山城を落としかけており、3艘の軍船は出払っている。今がチャンスと、数回野戦をし1600の守備兵を500ほどまで削る。8月、波多松浦家が高祖野城を制覇し、主力が戻って来ることが予想されたため、此方も5000の兵で強襲に入る。
  • 1556年1月、ついに亀丘城攻城を完遂。対馬で一城のみの主だった頃には、とても成しえなかったことだ。波多松浦家は博多町衆5000の兵と隣り合うこととなり、高祖山城から兵を動かすことができないようだ。これに乗じて翌月、守備兵のみの岸岳城を襲う。規模8の城を落としてきたばかりなので、規模5の城などかわいいものである。
  • 1556年6月、8000の海軍で強襲をかけ、岸岳城を手に入れる。陸路が繋がっていれば、もっと安く多くの兵を動員できるのだが…。そう、何とも邪魔なのは、竜造寺家に取らせてしまった伊万里城である。この城がある限り、肥前飯盛城と大村城は陸上では飛び地になってしまう。竜造寺の主力が狙ってくれば、なすすべもない。何かのきっかけで伊万里城を掠め取りたいが、竜造寺の主力は宗家より規模が小さくなってしまった阿蘇大宮司家・総兵力6000を攻めている。これから収穫を迎えて、兵力はさらに増え、向かうところ敵無しだろう。今攻めるのは危険な賭けだろうか。それとも背後の憂いは残したまま、波多松浦家を押さえて、筑前・豊前へと前線を伸ばすべきか。そろそろ直轄石高も20万を越え、臣従の手も使えるかもしれない。だが独立して直轄36万石の竜造寺と数度にわたって同盟するとなると、懐が寒くなってしまう。できれば同盟は一度で済ませたい…。さて、どうしたものか。
  • 1556年8月、意外と早くチャンスが訪れる。大友の勢力が筑後の有明海周辺へと達し、付近の小大名家を従属させ、竜造寺の根城肥前と、侵攻先の肥後とを、陸路分断する。加えて島津の軍勢7000余が北上し、志岐城を取り囲んだため、肥前に駐屯していた竜造寺の将は、なぜか肥後へと撤退している。この機会に奪えるだけ奪うしかない!いそいそと伊万里城侵攻開始。
  • 1556年12月、強襲にて伊万里城落城。竜造寺から再三にわたって不戦同盟交渉が来ていたが、もちろん全て却下した。やがて資金がなくなったのか、ぱったりと使者が来なくなる。外交費用の心配をするのは、向こうの方だったようだ。同時に島津も志岐城攻略完了。島津の手がつく前に、港町の桜馬場城へ一人先行させる。自分ならば先客がいようが(いればこそ)横取りしてしまうが、心優しいCOM大名は他をあたってくれることが多い。案の定、島津は桜馬場城には手を出さず、日之江城を襲い始める。こちら宗家は陸海から桜馬場城へと兵を進める。
  • 1557年3月、桜馬場城落城。兵力も一万近くに達し、次第に一城を落とすペースが早くなってきた。次の標的は…。陸路で切り離されて無人の竜造寺家の根城・佐嘉城9万5千石が、美味しそうに見えてならない。そこへ至る足掛かりを優先することとする。武雄城を取って陸路で攻めるか、竹崎城を取って海路で攻めるか。
  • 1557年5月、佐嘉城と繋がる港町・竹崎城を1万の兵で強襲開始。この道は小街道といって物資補給が十分でなく、3度までしか強襲できないようだ。まったく効率が悪い。肥前には小街道しかなく、ずっと海路侵攻しかしていなかったため、ここに来て始めてそんなことを知る。海路での侵攻経路開拓を選んだのは正解だったかもしれない。
  • 1557年6月、島津が空気を読まずに桜馬場城へちょっかいをかけてきたので、同盟を結ぶ。また、大きな誤算が発生する。竜造寺の主力が佐嘉城へどさっと戻って来たのだ。陸路もなく、船を使った形跡もないのに、どんな魔術を使ったのだろうか…。どこかで撤退先の城を落とされ、飛ばされてきたのだろうか。ともかくこれで佐嘉城と肥前一帯の空き巣計画は水の泡である。宗家に向いていた流れは終わりを告げた。竜造寺の手勢7千余は、まず日之江城を襲う島津をあと一歩のところで蹴散らし、1万の宗家軍にも挑んでくるが、ここで明け渡すわけにはいかない。兵を補充しつつ耐える。竹崎城は1万5千石のくせに城規模6と、苦労のわりに旨みもないのだが…。
  • 1557年8月、竹崎城を入手。9月、収穫を迎え、竜造寺が同盟を申し込んでくる。こちらも正面からやりあいたくないので、潮時かと受諾。34万石まで成長した宗家と手を結んだことで、竜造寺の資金はもう1万しかないのが気の毒である。さてほっと一息だが、攻めどころがなくなった。周囲と万遍なく同盟を結んでいる波多松浦家を北東の防衛線としていたのだが、先へ進むために従属・臣従を要請してみる。波多松浦家はこれを受諾。始めての臣従大名家の登場に感慨もひとしおである。武力5の鶴田前を客将として取り立てる。続いて、博多町衆・高橋家とも交渉を行う。博多町衆は従属、高橋家は臣従。高橋家の部将もさらに優秀で、元服したての屋山種速(武力6)を客将とする。強豪がひしめく筑前・筑後で、後発の宗家に従ってくれる部将は貴重である。大街道の筑前岩屋城を押さえたことで、秋月家と境を接することとなった。
  • さてこの頃の九州の状況は、小大名家の淘汰が進み、強豪同士、万単位のぶつかり合いとなりつつあった。まず中国本土から全国5位(82万石)の陶家が南下し、宗像大宮司家を臣従させ、宿敵の豊前杉家を攻め滅ぼそうとしている。それと同盟を結ぶ大友家(64万石)が利害の一致で、宿敵秋月家を追い詰めている。かつて九州一を誇った竜造寺家は、島津家・宗家・大友家の挟み撃ちで大きく威を落としたが、それでもまだ50万石と侮れない。竜造寺が衰退したことで一番甘い蜜を吸ったのは大友家で、筑後・肥後北部の竜造寺家配下はこぞって大友に鞍替えし、一気に勢力を伸ばした。そして北西からそれを追う宗家42万石。筑前・筑後の狭い地域で、四勢力と追い詰められた豊前杉家・秋月家が睨み合っている。それを傍目に、まだ中小勢力の残る南九州から、島津家43万石も着々と追い上げている。直轄石高は大友・竜造寺・島津・宗とほぼ並んでおり、差をつけているのは地の利・外交の利であろう。強豪を削るしかない立地の宗家にとっては頭の痛いことである。
  • 1557年11月、兵を筑前岩屋城に揃え、弱体化した秋月家の山隅城へ攻めかかろうというところで、秋月家から不戦同盟交渉が来る。受諾すればまた攻めどころがなくなるが、散々迷った末に受け入れる。山隅城の隣・久留米城には大友の主力が控えており、同じく山隅城を攻めようとしている。間に割って入って落とせたとして、二正面になる危険性も高いだろう。国力が上回る勢力と正面から渡り合うのは避けたほうが良さそうである。こうなっては、竜造寺から領土をもぎとり、何とか手薄な九州南部へと勢力を広げるべきだろうか。
  • 1558年1月、竜造寺との同盟を早速破棄して、1万6千の兵で森岳城へと強襲をかける。竜造寺の主力は大友・秋月との睨み合いで動けないだろうと踏んだのだが、期待を裏切って、肥前駐屯の総兵力で竹崎城へと強襲をかけてくる。しかし、肥後に勢力の一部を残す竜造寺と比べ、こちらの兵の数は2倍。漁夫の利にありつけないとなれば、肉を切らせて骨を断つしかない。誤算の2つ目は、外海から内海へ回すつもりで軍船を12艘用意したのだが、他家の港を挟むと通過できないと、このとき知らなかった…。おかげで内海に船を回せず、強襲が3度までしかできない。急いで内海にも船を発注する。誤算の3つ目。主力を全て肥前南部に移したのを見計らったように、豊前杉家をほぼ詰ませた陶家の余剰勢力が、従属の博多町衆を攻め始めた。陶家に睨まれたら、今の宗家にはどうすることもできない。大友家か陶家に従属して難を逃れることも考えたが、他所の所属となった波多松浦家と高橋家が次も味方についてくれる期待は薄いだろう。貴重な人材を手放すのはいかにも惜しい。多大な出費を覚悟して、陶家への同盟要請を決めたそのターンに、何故か陶家の方から同盟を要請してきた。事情はわからないが、渡りに船と承諾する。費用を受け持ってくれるというのだから、願ったり叶ったりだ。
  • 1558年5月、森岳城を手に入れる。一方、竜造寺家の攻める竹崎城は、補給軍船も無いため、まだ北の丸(5分の1)しか陥落していない。この分だと、まだ囮に使えるだろうか。攻城中に待機部将の兵力が8千に膨らんだので、先行させて武雄城にとりかからせる。主力も森岳城落城後、急いで武雄城強襲に合流。総勢2万5千の兵となる。58年8月、武雄城も無事落とし、三の丸まで侵攻された竹崎城から竜造寺勢を追い払う。兵力差もついてきて、囮作戦はまだ使えそうだ。次の囮として、武雄城も城規模5まで普請し、兵糧と兵を蓄えておく。
  • 1558年9月、その足で日之江城を攻略開始。竹崎と武雄はわざと(無論人手もなく)空けておく。案の定、竜造寺勢は武雄城を包囲、兵糧攻めを始める。兵糧が尽きるまでには日之江城を片付けられる計算である。10月、先に兵を削っておいたこともあり、城規模の小さい日之江城は2ヶ月で落城した。一方、囮の武雄城の兵糧はまだ1万3千ある。敵が矛先を変える前に、この勢いで本命・佐嘉城10万石を手に入れるとするか。
  • 1558年11月、早速侵攻開始。内海に発注した12艘のうち4艘はまだ完成していないが、8艘の船を往復させて次々と兵力を送り込んでゆく。城規模7のため大人数で一気に畳みたい。しかし日之江城と森岳城に、大友傘下の下蓮地家と、肥後駐屯の竜造寺家の水軍が手を出してくるため、煩わしいがやむをえず駐屯兵力を置く。大友も山隅城を間もなく片付けそうであり、筑前岩屋城と大街道で接することとなるので、今のうちに同盟をしておくのが無難だろうか。なかなか大きな出費なので決心がつかない。
  • 1559年2月、佐嘉城が宗家のものとなる。最後まで竜造寺家に従っていた天草家・神代家・江上家が一斉に独立する。こちらに臣従させるつもりで、早速同盟の使者を送る。10万石の増収に、頑固だった博多町衆もついに臣従を呑んでくれる。
  • サンプル弐版攻略・宗.txt
  • 最終更新: 2020/07/29 23:51
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